6月24日:街の人がやさしい

今日は久しぶりに夫がひとりで出かけるので、これまたものすごく久しぶりに1歳ぼうやと2人きりで休日にお出かけをした。

今週に入りぼうやの鼻水が垂れているのでまずは病院でお薬をもらい、そのあとは近くのカフェでお昼ごはんを食べて、デザートにスタバでレモンケーキフラペチーノを飲んで、100均でぼうやの新しいお食事スプーンを買って家に帰った。

ベビーカーを押していると、街の人がやさしい。診察でべそべそに泣いたぼうやと一緒に病院から出ると、知らない人が「かわいいね!」と声をかけてくれた。
どうしたのと聞かれたので鼻水が出るんですと答えたら、ぼうやではなくわたしに「がんばってね」と言ってくれて、思わず本気の「ありがとう!!!」が出た。がんばる。

お昼ごはんを食べたいカフェはビルの上の階にあるので、エレベーターに乗る。
何人か並んでいたのでいちばん後ろに並ぶと、前に並んでいたサラリーマン風の男性がわたしたちに気づいて、なにも言わずに近くのエスカレーターにサッと移動してくれた。

絶対にわたしたちのためだ、そう頭でハッキリわかったときにはもうエスカレーターに乗ってしまっていたので、お礼を言えなかった。
ああいうとき、背中に向けてでもありがとうを言える人になりたい。どうもありがとうございました。
エレベーターに乗り合わせたほかの方も、行きも帰りもそれぞれ違う方が「お先にどうぞ」と言ってくれた。うれしい。お礼を言って先に出た。

カフェではテラス席に座った。
サラダとサンドイッチのセットを注文すると、店員さんがベビーカーに乗るぼうやを見て「お席までお運びしますよ」と言ってくれた。やさしさが沁みる。

お言葉に甘えて、セルフのお水だけを持ってテラスに向かおうとしたのだけど、なぜか(運んでくれると言ってくれたのはわたしのまぼろしかも)と疑ってしまって、一瞬その場でフリーズした。
そのフリーズにもすぐに気づいてくださり、おや? という表情で「お席まで持っていきますよ」ともう一度声をかけてくれた。まぼろしじゃなかった。どうもありがとう。

テラス席に座りしばらくすると、店員さんがトレーに乗ったサンドイッチとサラダを持ってきてくれた。おいしくてもりもり食べた。ぼうやも子ども用のパンをもりもり食べた。
空はいい青だった。風も気持ちよかった。
ぼうやは鼻水が垂れていたけど、本人はまったく気にしていなかった。ティッシュで鼻水を拭くといやいやと首を横に振った。

食べ終えるとすぐに席を立つ癖がもうついているので、ササッと後片付けをしてベビーカーを動かした。
テラスから店内に戻るには扉を開けなくてはいけないのだけど、わたしが扉を開けてすぐに、近くに座っていた人が立ち上がり「どうぞ」とわたしたちを通してくれた。
同時に、ぼうやが掴んでいたわたしの汗拭きシートが床に落ち、それをすぐに別の人が拾ってくれた(使用済みシートではなく袋ごとのやつ)。
さらには、また別の人がわたしの食べ終えたトレイを「片づけますよ」と棚の上に置いてくれた。

怒涛のやさしさラッシュだった。
助けてくださった方たちのお連れさまも(大丈夫かな?)という表情で腰を上げてくれていたから、なにかあれば助けますよという気持ちは、実際に手を貸してくださった方の数よりさらに多くもらったと思う。

みんなやさしいな、すっごいやさしいなぁ! ふわふわしたあたたかい気持ちで家に帰った。
数えきれないほどありがとうを言った日になった。今日はいい気持ちで眠れそう。わたしも人にやさしくしたいと思った。

ぼうやはいま横ですやすや寝ている。たくさんやさしくしてもらえてうれしいね。はやくぼうやと一緒にありがとうを言いたいな。

6月21日:人生の後悔について

 生きているなかで、今まで「ああすればよかった」「こうすればよかった」と思ったことがなかった。いつでも、だいたいは自分の選択を肯定できた。

 ファミレスで「あっちのメニューを頼めばよかった」と小さく悔やむことはあるけど、「人生もっとこうすればよかった」と大きく悔やむことはなかったのだ。それは自分の長所であり、明るく生きていられる自分を誇らしくも思っていた。

 けれど30代に入り、その明るさがとてもとても、傲慢で、無遠慮で、屈託のない悪意に満ちたものだったのではないかと思ってきた。

 人を傷つけてきた。そのことにやっと気づき始めている。

 恋愛で悩む友達に「好きじゃないなら別れちゃえばいいじゃん」と言ったこと。すぐに別れるならとっくにそうしているのに。家事をしない夫の愚痴をこぼす友達に「やらせたらいいじゃん」と言ったこと。やらないから困っているのに。

 「冷静に考えて結婚相手を選んだら、いまの人を選んでないから」と自分の口から言わせたことの、その暴力性たるや。その言葉を彼女から引き出して、わたしはなにをしたかったのか。

 前向きに生きてきたんじゃない。ただ人の傷に鈍感だっただけだ。

 そのことに気づき始めた瞬間、瞬く間に人生の後悔が増えた。後悔ばかりだ。

 もっとやさしくすればよかった。もっと助けてあげればよかった。あんなに冷たい言葉をかけるべきではなかった。ないがしろにするべきではなかった。あのときの彼女の、彼の、心をもっと見る努力をするべきだった。

 人にやさしくしたい。やさしい心を持ちたい。それは相手のためではなく、その人との関わりが切れたあとでも、こうして「ああすればよかった」と自分自身が苦しまないため。

 後悔がこんなに苦しいなんて知らなかった。もうどうしようもないことに心がとらわれることが、こんなにやるせないなんて。「自分が恥ずかしい」と思うことで感じる痛みが、ここまでとは。

 SNSを見ていると、あきらかに悪意に満ちたコメントを他人にぶつけている人がたまにいる。やめたほうがいい、と思う。

 相手の心を傷つけないため。もう匿名の時代ではないので、現実的に慰謝料という形で責任を負わなくてはいけないから。そもそも倫理的な問題で。

 それらももちろん理由ではあるけれど、それだけではなく、ただただ、自分の心を守るために。

 SNSで、匿名で、他人を傷つけた。

 いつか絶対に、その行為が自分を攻撃する日がやってくる。「そういうことをやってしまった」と思い出すたびに、じくりじくりと生きたまま心臓を握られている気持ちにきっとなる。やめたほうがいい。人を傷つけた記憶が多ければ多いほど、健やかな日々からは遠ざかるんだと思う。

 それはきっと罪悪感。人生に鎖のようにつきまとう感情。

 人にやさしくしよう。自分のために。それが豊かな日々の材料になる。




 

 

6月13日:インボイスがむりすぎる

インボイスがむりです。ただそれだけの日記です。

なにが無理ってよくわからないことです。確定申告すらヒイヒイと期限ギリギリにこなしている人間がそう簡単に対応できるはずがない。どうすればいいの。とにかく今まで免除されていたあれがこうなってそうなって大変だ! えらいこっちゃ! ということはわかる。

自分なりに調べてどうにか対応していくしかないのですけれど、想像するだけで頭がぱーん! 終わりですもうみんなでアイスクリームを食べましょう、ぴっぴろぴ〜〜〜になってしまうのでもうどうしようもない。

何年大人をやっているんでしょうか。大人なんてこんなもんでしょうか。それともわたしがこんなもんなだけでしょうか。

世の中の大人はいつ「自分は大人になった」と思うんだろう。わたしは漫画を大人買いしたときかな? と思いましたけど、結局のところ1冊ずつ買っていた漫画をドーンと一気に買えるようになっただけで、中身は子どもの欲望のまま。やっぱり大人になりきれていないのではないかと思います。

大人ってなんだろう。そもそも生きるってなんだろう。起きて食べて寝てそれだけでエネルギーを使っていてめちゃくちゃえらいのにそれに加えてインボイスにも対応しないといけないなんて。生きるって大変だ。

インボイスのせいで生命について考え始めてしまいましたよ、ほら〜〜インボイスくんのせい! いきなり出てきて「こんにちは! 今すぐぼくのことを理解しないと仕事がやばいよ!」じゃないんだよ。やさしくしてくれよ。

インボイスが「こんなのもわかんねぇのか、ばかじゃねぇの。だからこうだよ、違うってばか! こう!」ってツンデレに教えてくれたらわたしだってがんばれますよ。なめないでくださいよ。どうか助けてください。

6月12日:新しく知ること

最近図書館を利用するようになった。はじめは仕事で必要な書籍を読むためだったが、「本が読み放題」という魅力を再認識して、今では仕事を抜きに頻繁に通っている。

当たり前だけど、わたしが図書館を利用していなかったときも、図書館を利用している人はいる。行くたびに「平日でもたくさん人がいるんだな」と思う。のんびり時間を潰しているように見える人、子ども連れの人、雑誌コーナーを興味深そうにながめている人、真剣にノートにメモしている人、カウンターでお目当ての本のありかを尋ねている人。たくさんの人がいて、その人たちはわたしがここにこなくても、今この瞬間にここに存在しているんだよなと少しだけ不思議な気持ちになる。

自分が知らない世界がたくさんあって、自分が知らなくてもそこの世界は回っている。新しい世界に飛び込んでみてもわたしが入ることで生まれる波紋はほんの小さなもので、側から見たらなにも変わっていないんだろう。それがとてもおもしろい。(図書館の存続についての問題点はひとまず抜きにして話を進めます)(なくならないでほしい)(あと司書さんの給料もあげてほしい)

なにか新しいことを始めたいとき、そこまで怖がらなくてもいいのかもしれないとも思った。ひとりの力は偉大だけれど、ひとりの力は小さくもある。ちょっと足を踏み入れて、やっぱりなんか違ったと足を引っ込めたとしても、中にいる人のほとんどはまったく気づかないのかもしれない。それを寂しいと感じるか、気楽だと感じるかは人それぞれだけど。ひとまずわたしは、生活に新しく加わった図書館という居場所を大切にしたいと思う。

ちなみに今は哲学の本を読んでいます。はじめて知ることはおもしろいね。人生知らないことばかりだ。

3月6日:にじむ夜景、温泉、ほぐれる心身

熱海に来た。生後8か月の赤ちゃんとのはじめての旅行。産後の腰痛がなかなかしぶといので、わたしの湯治もかねて近場の熱海でゆっくり養生しようとなった。お風呂だいすき。温泉だいすき。前日は楽しみでなかなか寝付けず、若干の寝不足で新幹線に乗った。

大量のおしっこでおむつが決壊して、赤ちゃんの服とわたしのデニムにじんわりおしっこのシミができるハプニングがありつつも、無事に熱海に到着した。(ちなみにおしっこは持っていたペットボトルのほうじ茶を少しだけ染み込ませてタオルで吹いた。これでノーカン)

きれいな海や、やさしい旅館の中居さんや、おいしいごはん、その他もろもろありつつも、とにもかくにも夜景を眺めながらの温泉が最高だったのでそのことだけをこの下に書く。

***

お布団ですやすや眠る赤ちゃんを夫に任せて、夕食のあとにひとりで大浴場へ。まだ寒さの残る3月の夜。シャワーで体を流して、いそいそと露天風呂に向かう。まだ温まっていない体を夜の風がひんやり包む。さむいさむい、と身を震わせながら湯気がふわふわただよう温泉にちゃぷんとつかる。はぁ、あぁ、あったか〜い。そこまで重さのないさらりとした温泉が肌にやさしく寄り添う。

温泉につかりながら、視線をスイと上げる。目の前には熱海の夜景。夜の闇をうつしたどっぷりと暗い海の上、海岸線の向こうにあまりにも美しい街の灯り。

視力が悪いわたしは遠くの細かいところがよく見えない。入浴時はメガネもコンタクトも付けないので当然夜景もぼんやりとにじむ。けれどそのぼんやりさの、なんてきれいなこと! 視界いっぱいに水彩画で描いた花火があるようで、まるで夢のような景色で、あれ熱海ってこんなにきれいなんだっけ? と熱海に失礼なことが頭に浮かんでくるほど。(熱海は温泉も海もおいしいごはんもあるすばらしいところです)

太陽がのぼるまで消えない夜の花火。輪郭がじゅわりと暗闇に溶けたわたしだけの花火。温泉の湯気がふわふわとその花火に重なって、やがて空に消えていく。

目を閉じる。音を聞く。かけ流しの温泉がチョロチョロと流れる音。どこかで動く機械の音。体の力を抜いて温泉にすべてをあずける。背中、お尻、足、ふわりと浮かぶ。体の力が抜けて、心もほぐれ、あぁもういいや、なんでもいいや……の気持ちになってくる。

明日からまたがんばろうとか、悩み事なんて小さいとか、そういう前向きなそれではなくて、まるで頭の中まで温泉が流れ込んで脳みそをぽかぽかにあたためて、とろけさせ、そのせいなのかおかげなのかもういいや、なんだってもう……こんなに気持ちいいならもう、どうだってなんだって、あ〜あ、いい気持ち……って、そんな感じに、なっていって…………

やがて「さむいさむい」「冷える冷える」と楽しげにしながら、2人組のお客さんが入ってきた。すべらないレベルのできる限りの駆け足で、露天風呂にちゃぽんと入ったその人たちの「は〜あったかい」。そして見事な夜景に一言。「最高だね」。

心の中で同意する。ほんとほんと、最高だね。もうなんにもどうにも、なあんだっていいよね。

2月4日:ふしぎないきもの

赤ちゃんって不思議だ。我が家にいる生後7か月のいきものはとてもかわいくてとても不思議。よだれが垂れていても気にしないし、うんちがおしりについていても気にしない。わたしだったら気になるけどな。鼻くそがついていても気にしないし、離乳食で口の周りがベタベタでも気にしない。わたしだったら拭きたいけどな。

赤ちゃんってすごいな。見ていて飽きない。自分とはぜんぜん違ういきもの。よくわからないところで笑うし、よくわからないところで泣く。

7か月赤ちゃんを育ててみて思ったけれど、わたしは赤ちゃんの「お世話されている恩をカケラも感じてないところ」がたぶんだいすきだ。鼻水を拭いたら怒るし、おむつを替えようとしたらハイハイで逃げようとするし、麦茶をあげたらブーッと吹き出してくる。そんなことある? 大人がやったら怒られるよ。すごいことするじゃん! とびっくりするたびになんかおもしろくて笑う。水分を取らないと死んじゃうのに、そんなこと気にせずにブーしちゃうんだ? めちゃくちゃワイルドじゃん。

わたしのお腹にめり込むくらいハイハイで突き進んでくるし、ちいさなおててで顔をバンバン叩いてくるし、髪の毛を掴んでくるし、たまに抜くし、よだれをかけてくるし、服で鼻水を拭いてくる。人生でそんなことされるのはじめて。繰り返すけど大人がやったら怒られるからね。

なんてふしぎないきものだ。それでもかわいくてかわいくてつい頬がゆるむんだからふしぎだ。いたいよう、と言いながら笑っている自分がふしぎだ。髪の毛むしられてんだぞ。怒るとこだぞ。でもニコニコ笑っている小さなお顔を見るとまったく怒る気になれない。小さなおてての中にはわたしの髪の毛が数本。イッテ〜! でもかわいい。その繰り返しで今日が終わる。

6月10日:フレンチトーストを食べに行く日

出産予定日がずんずんと近づいて、気づいたら来週産むことになる……かもしれない時期になっていた(これから確定の予定日を決める)。やっと赤ちゃんに会える! という気持ちよりも、出産こわい! のほうが何百倍も強い。こわい。冷静に考えて出口が小さすぎる。お腹が大きくなるにつれて、そんなに大きくなって大丈夫? 逃げ場がなくなっておりますが……と心が震えた。

平均的な赤ちゃんの大きさに合わせて、もっと適した出口を作るべきだったのでは? 人類の進化はどうした? 出産の方法が "踏ん張って下から産む" からずっと変わらないことに怒りが湧く。やれIT、やれテクノロジーと文明を発展させている場合か、進化を諦めるな。お腹に扉をつけて、カパッと開けたら赤ちゃんが「こんにちは〜!」と出てくる仕様にしよう。もしくはうずらの卵くらいで産んで、その後は空中にふわふわ浮かべていれば酸素で育つようにしよう。そうしよう!

出産前の妊婦にかける言葉は、ハッピー笑顔で「赤ちゃん楽しみだね!」「早く会いたいね!」ではなく神妙な顔で「ご無事で……!!」が本来正しいのでは。生きるか死ぬかわからない戦場に向かう武士には「どうかご無事で……」と火打ち石カンカンしたんでしょう。出産も生きるか死ぬかなので火打ち石カンカンしてください、もしくは1000万ほどください。

そういえば、相手にかける言葉で少々の違和感があるのは、離婚に関してもそう。好きで好きでたまらないのに相手に別れを切り出されたのなら「たいへんだったね……」とブルーな表情で返すのが適しているかもしれないけど、生涯をともにしたくない相手と縁が切れたのなら「離婚したの? おめでとう!!」と私なら言われたい。やったぜ離婚、あいつとはもう二度と会わないぜハッピー!ピ〜〜〜ス!!とルンルンで過ごしているときに「離婚したんだって? たいへんだったね……」と言われたら「そんなことよりおめでとうパーティーしてください」とケーキを催促してしまうかも。

なんの話をしてたんですっけ? そういえば今日は今からフレンチトーストを食べに行くんですよ。昨日はドーナツを食べたんですけどもね。甘いものを味方につけて今日も過ごしてますよ、の日記でした。