1月21日:間取り図を見て思うこと

間取り図を見るのがすきだ。ワンルーム、1K、1DK、2DKに2LDK、広々とした3LDKやどーんとリッチな5LDK。たまにSがついたりして、もうなんのこっちゃとなっていく。

自分の生活スタイルとはまったく違う間取りを見て、想像するのもだいすきだ。どんな人が暮らすかな、どんな日々を送るかな。どうかどうか幸せであれ、居心地のいい家であれ。

道を歩いている人たち、それぞれ帰る場所があるといいと願う。きっとすべての人が、安心して帰れる家があるわけでない。帰りたくない家もあるだろう、逃げ出したい家もあるだろう。神経をすり減らして、怖がって、おびえて、どうにか日々を生き抜いている人もいるだろう。

全員が楽しい食事をとり、ぐっすり眠れるわけではない。知っている。だけどそれでも夢見がちに、いつかすべての人たちが、心をほどける家にたどり着いてほしいと思う。家は休息所で、避難所だ。外の世界で傷ついた体や心を、ゆったり休ませる場所だ。そうであってほしい。

一緒に住めない人があぶり出されたとしても、ときには縁を切っても、なによりも自分を守ってくれる居場所をどうにかこうにか見つけ出してほしい。他人事だ、結局は。わたしはいま安心して暮らせる家でこれを書いている。なにかに脅かされる恐怖と戦わずに眠れるし、ビクビクせずに食事ができる。安全圏からの言葉で、うっとうしいなと思う人もいるだろう。

それでも願う。せめて家の中だけは、おびえずに過ごせますように。いま自分を傷つけるだけの家に囚われている人も、どうかこの先で、自分を守ってくれる家との出会いがありますように。怖がらずに眠れる夜がありますように。家だけは、家の中だけは。自分の味方でありますように。

1月19日:食べて眠ってまた食べる

たまになにもかもどうでもよくなる日があって、仕事なんてしたくなくて、だけど遊ぶのも面倒で、もうな~んでもいいか! 捨てちゃえば! の気持ちになる。きっとわたしだけではない、このなんとも言えないモヤモヤダラダラズルズルした気持ちになるのは。

生きるのも死ぬのも体力がいるし、気力もいるし、痛いのも苦しいのもいやだから、ふと(このまま地面にずるんと引きずり込まれて、そこがホカホカあたたかくて、眠れるほど気持ちよくて、そのまま意識を手放したらわたしの存在ごとなにもなかったことになればいいな)と思う。それは悲観的な気持ちとはまた違って、ポジティブな無で、だれも悲しまずだれも泣かないのであれば、そんなに愉快な無はないなと思う。

けれどそんな魔法は使えないから、どうせ生きるなら楽しくしようと、できるだけの娯楽をかき集めて日々を豊かにしようとしている。生きがいややりがいなんてどうでもいいから、ただおいしいご飯があって、すきな人たちがいて、健康で、安心して眠れる家があればいい。だけどきっと、それらをすべて手に入れるのはとてもハードルが高いんだろうな。とくに健康は。

「気を抜いたら置いて行かれる」「精一杯やらないと成功できない」「勝ち取りたいなら走り続けろ」のような、圧のある言葉が苦手だ。きらいと言ってもいい。どうぞ置いて行ってくれ、かまわないから。自由に追い抜いていいから、やけどしそうな熱をこちらに向けないでくれ。自分の身を焦がしてがむしゃらに進むのはどうぞご自由にだけれど、その炎でわたしまで焼かないで。

今日は夜にお鍋を作る。ニンニクをごろりとかたまりのまま入れて、トロトロに煮込まれたそれを、豚肉でくるんと巻いて食べるととってもおいしい。暖房をつけて、それでも足元は寒いからブランケットをかけて、ゆっくり食べよう。お腹がいっぱいになったらデザートにみかんを食べて、あたたかい紅茶も飲んで、漫画を読んで、眠くなったら寝よう。

わたしの人生、あと何年あるかわからない。痛いのも苦しいのも悲しいのもいやだから、まだ生き続けていたい。だから自分の存在をごはんや睡眠や娯楽で確かめて、泣きたくなったら泣いて、怒りたくなったら怒って、それ以上にできればたくさん笑って、まだここに存在していたい。はやく夜にならないかな。だんだんお腹が空いてきたから。