くまのきろく

不定期日記

大人になっても怒られたくない

 体重がぐんぐんと増えている妊娠8か月。

 「お腹の子、平均より大きめだねぇ」と前回の妊婦健診で言われたことで、(じゃあ増えている体重はすべて子の分で、わたしの脂肪じゃないんだ?じゃあいっぱい食べていいねぇ!)となぜか脳内変換してしまった。過去のわたしの愚かさが今になって憎たらしい。

 ぱくぱく、もりもり、おいしいおいしいといろいろなものを食べていた結果、今回の妊婦健診で「体重が……すごいいきおいで増えている……」と助産師さんを驚かせてしまった。

 あの瞬間を漫画にしたら、わたしの頭の上には確実にギクゥ!と擬音が飛んでいた。
 間食してますし、朝昼晩の食事を絶対に逃すまいとお腹がパンパンになるまで食べていますし、運動はしていませんし、原因は明白です。つわりがなくなりハッピ〜ラッキ〜♩と食べていたのはわたしの意思で、つまりわたしのせいで、誰のせいでもないのであった。

 「なんでだろ? 心当たりはある?」と助産師さんがわたしに聞く。わたしは心の中でソワソワしながら、「うんと、なんででしょう? つわりで3キロ減って、つわりがなくなってからは確かに3食きっちり、お腹いっぱい食べてますけど、間食? はそんなに、していない気もするというか……」。口はもごもご、視線はキョロキョロ。どうにかこの場を切り抜けようととにかく「3食お腹いっぱい食べている」とアピールした。わたしは食事に加えて間食をしています!!! と言うよりマシな気がした。

 助産師さんとの面談が終わり、次はお医者さんの健診に移る。名前を呼ばれて席に座る。いつもやさしい先生が、今日もやさしく話しかけてくれる。あっ、怒られないんだ、よかったぁ……と思っていたら、先生が仏のように微笑みながら「ここに助産師さんが書いてくれてるねぇ」とわたしに言う。

 カルテを除くと、そこにあったのは助産師さんの字で " ご飯を お腹いっぱい 食べている " 。

 先生が「ふふふ」と笑う。わたしも「ふふふ」と笑う。先生の笑顔は今日もあたたかでした。
 栄養士さんとの別日面談、真面目に受けます。

親の葬式で泣かない娘になりたかった

 父の通夜と告別式が終わった。まだまだやることは多いものの、いったんひと段落ついた。

 ドッと疲れを自覚するとともに湧いてきたのは悲しみ、虚しさ、懐かしさ、寂しさ。そしてなにより、ひときわ強く表面に浮き出ているのは怒り。わたしは怒っているのだ、たぶん。

 怒りの感情は苦手だ。怒るのは疲れる。とても疲れる。腹の立つことがあっても、真面目に受け取らずに何事もなかったかのように過ごせたらそれがいちばんいい。わたしにとっては。

 怒れば怒るほど、体の奥にあるサリサリとしたガラスのような、わたしの中で大事にしたい透明な部分に無駄な色がつく。形だってちゃんとまぁるくしておきたいのに、怒りという鋭い狂気がガリガリ、ゴリゴリと傷をつけてデコボコにしてしまう。
 透明でなめらかな部分。わたしの軸の部分。今はくすんで尖っている。


 葬式というのは、残された者のためにするのだと思っていた。死というものを徐々に理解して、自覚して、悲しみや寂しさに寄り添うことで前を向くのだと思っていた。

 けれど蓋を開けてみれば、そこにあったのは父のための会であり、父のためを思った言葉がわたしに投げられる。死んだ父が幸せであるように、いい人生だったと周りが思えるように、残された娘たちにその言葉は託される。
 それは「がんばれ」だったり、「負けないで」だったり、「かわいそう」だったり、「あんなに元気だったのに」だったりする。

 涙ぐむ参列者にわたしはお礼を言い、激励の言葉を受け止め、式が滞りなく進むよう姉と協力しながらあちこちに走り回り指示を出す。

 言葉の奥にあるものが同情だろうと、激励だろうと、嫉妬だろうと、憎しみだろうと、愛だろうと、やさしさだろうと、だんだんとどうでもよくなって、最終的にすべての言葉が煩わしくなっていた。

 父のこともわたしたち家族のこともなにもわからない人の前で泣きたくないと、目の奥に力を入れる。
 泣いてたまるかと思った。なぜだか意地になっていた。けれど発した言葉とともについポロリと流れてしまったそれを、「涙出ちゃった」と誤魔化したときの馬鹿みたいな笑顔を、わたしは今でもどうにか取り戻せないかと思っている。

 式が進む中で、わたしが泣かないことが不思議だっただろうか。薄情だと思っただろうか。
 そしてやっと涙を流す姿を見て、あぁやっぱり悲しかったんだと満足しただろうか。わたしが葬儀の中で泣くかどうかで、わたしと父の関係性を確認できるはずがないのに。

 ひとりだったらよかった。
 父との最後の別れのときも、骨になって出てきたときも、周りに誰もいなければよかった。誰にも見られずに流せる涙がほしかった。演出のひとつとしての泣き顔を、添えてしまったのではないかと、他人のために。

 父のための葬式。父と関わりのあった人たちを招き、父が喜ぶであろう式を組み立てた、父のための葬式。
 正解だっただろう。立派な式だっただろう。

 だけどひとりの時間が少しでもあれば、わたしを励ます言葉から逃げられる場所がどこかにあれば、もう少し清々しい気持ちで式を終えられたのではないかと。そう思えてならない。

 どうしてこんなに腹が立つんだろう。なにに腹が立つんだろう。結局のところまだ自分の気持ちと完璧には向き合えておらず、ぐちゃぐちゃの頭で今日という一日を終えようとしている。

 炎でごうごうと焼かれ、小さな骨壷の中に収まった父。そんな父の納骨の日には、わたしたち残った家族を「冷たい」「非常識」と罵った親戚も同席する予定だ。
 彼らがいなくなってから、いやなやつらだったね〜! とわたしはヘラヘラと笑ったが、やっぱり許せていないんだろうか。ここでいやと言ったらどうなるんだろうか。

 わたしが父の介護をしていたことさえ知らないあなたたちが、どうして納骨に立ち会うんですか。それを言った瞬間にわたしの心の中は怒りに沈んで、もう戻ってこれないんじゃないだろうか。きれいな場所に。


 怒るのは疲れる。泣くのも疲れる。深く考えずに平和に笑っていられたらいいのに。
 薄情だと思われたとしても、感情に振り回されて生活が成り立たなくなるよりずっといい。

 冷たい娘だと思われたかった。
 葬式で涙のひとつも見せないなんてと、そう言われたほうがずっとマシだった、のか?
 だめだね、まだわからないや。

父が死んだ

 父が死んだ。言葉の通り死んだ。椅子に座り居眠りをするようにぽっくりと逝った父。あまりに突然のことに驚いたが、驚きや悲しみを自覚する前に通夜や告別式の準備が始まった。

 父は商売をしていた人であったから、長年働いてくれていた従業員は葬式に参列する気満々で、面倒なのでそれでは家族葬で……というわけにもいかない状況だった。父の死に駆けつけたその夜には、従業員の人に相談して葬式の会場を決めた。悲しむ暇もなく、むしろ目の前で父の死に対して涙を流す従業員や長年の知り合いを「よしよし」「びっくりしたね」と抱きしめながらわたしが慰めることとなった。

 父が死んだ。いつか死ぬと思っていたし、病弱な人であったから長生きはしないと思っていたが、まさかこんなに突然逝くとは想像していなかった。人の死というのは本当に前触れなくやってくるのだなとぼんやりと思った。

 父が死んだ。死にやがった。姉が父の商売を引き継ぎ、わたしがサポートをして、ここ数年は姉妹協力してお店を切り盛りしていた。長年の営業であちこちボロボロになっていたから、銀行に融資を受けて改修する予定も進んでいた。もう父は仕事はしていなかったが、それでも名義を父のままにしていたので、父が死んだことで融資の件も白紙に戻った。

 せめて工事が着工してからにしてくれよ、と思うのは薄情なのか。けれど今までも、そして現在進行形でも迷惑をかけられているのだから、少し悪態をつくくらい許してほしい。

 疎遠の親戚が父が死んだ途端にすっ飛んできて「冷たい」やら「お父さんがかわいそう」やらさんざん言われた。最終的に「店はどうするの?」だと。財産狙いで娘たちが攻撃されているのに守ってくれないなんて、ひどい父親だよ。

 認知症で直近の記憶がどんどんなくなり、車の運転もできなくなり、いろいろなものを失い、そんなときにわたしが「もうわたしたちを守ってくれないの?」と聞いたね。なにかを説得するための泣き落としのはずが本当に涙が出て、それを見てあんたも涙ぐんで「パパなんだから守るよ」と言ったじゃないか。守れよ。うそつきめ。天国なのか地獄なのかわからないけど、今すぐ駆け寄り「お父さんのせいで大変なんだけど!?」と責めたいよ。「悪いねっ!」と悪気なく笑顔で返す姿が容易に想像できて、なんだかさらに腹が立つ。笑ってんじゃないよ。

 まだ悲しめない。やることがたくさんあり、すべてを投げ出して自分の気持ちを整理したいのに山ほどのタスクがそれを許してくれない。人間がひとり死んだところで世界が変わるはずもなく、つまりわたしの仕事の納期もそのままであり、まだ幼い我が子は食事や遊び、親からのぬくもりを日々求めている。お腹に宿った第二子も葬儀が終わるまで大人しくしてくれているわけはなく、着実に大きくなりその重さを増やし、激しい胎動でボコボコとわたしの腹を蹴り上げる。すべて落ち着いてくれよ、すべて。

 生活能力が下がり、老人ホームや遺言書のことも調べていた矢先の父の死。本格的に娘たちに面倒をかける前にコロッと死ぬのが父の「守る」ということなら、もちろん多少助かる部分はあるだろうけど、それでももう少しうまいやり方やタイミングがあったろうと思う。下手な守り方。記憶がゴロンゴロンと外に流れ出し留めておけない父の、その頭の中に、自ら発した「守るよ」の言葉が残っていたかなんて、もう一生わからないままだ。死というものはすべてを波のようにさらって、残り生きていく人間はただ茫然とするしかないのだなと、思った。

 それでもわたしは今日の昼に家族でピザパーティーをしたし、ワンピースの新刊も買って読んだし、YouTubeやネトフリも見ている。生活は続いている。ひとりになりたいがひとりになれない。でもこのいつもの生活のおかげで持ち堪えられている部分もきっと多く、当たり前のような、普通の生活の中で、少しずつ死というものを受け入れて消化していくんだろう。

 無理にポジティブにまとめたくはなく、けれど泣いて泣いて暮らしているわけでもない。
 親の死というものは不思議だ。不思議な気持ちのまま、まだしばらくは淡々とやることを進めていくしかない。

街の人がやさしい

今日は久しぶりに夫がひとりで出かけるので、これまたものすごく久しぶりに1歳ぼうやと2人きりで休日にお出かけをした。

今週に入りぼうやの鼻水が垂れているのでまずは病院でお薬をもらい、そのあとは近くのカフェでお昼ごはんを食べて、デザートにスタバでレモンケーキフラペチーノを飲んで、100均でぼうやの新しいお食事スプーンを買って家に帰った。

ベビーカーを押していると、街の人がやさしい。診察でべそべそに泣いたぼうやと一緒に病院から出ると、知らない人が「かわいいね!」と声をかけてくれた。
どうしたのと聞かれたので鼻水が出るんですと答えたら、ぼうやではなくわたしに「がんばってね」と言ってくれて、思わず本気の「ありがとう!!!」が出た。がんばる。

お昼ごはんを食べたいカフェはビルの上の階にあるので、エレベーターに乗る。
何人か並んでいたのでいちばん後ろに並ぶと、前に並んでいたサラリーマン風の男性がわたしたちに気づいて、なにも言わずに近くのエスカレーターにサッと移動してくれた。

絶対にわたしたちのためだ、そう頭でハッキリわかったときにはもうエスカレーターに乗ってしまっていたので、お礼を言えなかった。
ああいうとき、背中に向けてでもありがとうを言える人になりたい。どうもありがとうございました。
エレベーターに乗り合わせたほかの方も、行きも帰りもそれぞれ違う方が「お先にどうぞ」と言ってくれた。うれしい。お礼を言って先に出た。

カフェではテラス席に座った。
サラダとサンドイッチのセットを注文すると、店員さんがベビーカーに乗るぼうやを見て「お席までお運びしますよ」と言ってくれた。やさしさが沁みる。

お言葉に甘えて、セルフのお水だけを持ってテラスに向かおうとしたのだけど、なぜか(運んでくれると言ってくれたのはわたしのまぼろしかも)と疑ってしまって、一瞬その場でフリーズした。
そのフリーズにもすぐに気づいてくださり、おや? という表情で「お席まで持っていきますよ」ともう一度声をかけてくれた。まぼろしじゃなかった。どうもありがとう。

テラス席に座りしばらくすると、店員さんがトレーに乗ったサンドイッチとサラダを持ってきてくれた。おいしくてもりもり食べた。ぼうやも子ども用のパンをもりもり食べた。
空はいい青だった。風も気持ちよかった。
ぼうやは鼻水が垂れていたけど、本人はまったく気にしていなかった。ティッシュで鼻水を拭くといやいやと首を横に振った。

食べ終えるとすぐに席を立つ癖がもうついているので、ササッと後片付けをしてベビーカーを動かした。
テラスから店内に戻るには扉を開けなくてはいけないのだけど、わたしが扉を開けてすぐに、近くに座っていた人が立ち上がり「どうぞ」とわたしたちを通してくれた。
同時に、ぼうやが掴んでいたわたしの汗拭きシートが床に落ち、それをすぐに別の人が拾ってくれた(使用済みシートではなく袋ごとのやつ)。
さらには、また別の人がわたしの食べ終えたトレイを「片づけますよ」と棚の上に置いてくれた。

怒涛のやさしさラッシュだった。
助けてくださった方たちのお連れさまも(大丈夫かな?)という表情で腰を上げてくれていたから、なにかあれば助けますよという気持ちは、実際に手を貸してくださった方の数よりさらに多くもらったと思う。

みんなやさしいな、すっごいやさしいなぁ! ふわふわしたあたたかい気持ちで家に帰った。
数えきれないほどありがとうを言った日になった。今日はいい気持ちで眠れそう。わたしも人にやさしくしたいと思った。

ぼうやはいま横ですやすや寝ている。たくさんやさしくしてもらえてうれしいね。はやくぼうやと一緒にありがとうを言いたいな。

人生の後悔について

 生きているなかで、今まで「ああすればよかった」「こうすればよかった」と思ったことがなかった。いつでも、だいたいは自分の選択を肯定できた。

 ファミレスで「あっちのメニューを頼めばよかった」と小さく悔やむことはあるけど、「人生もっとこうすればよかった」と大きく悔やむことはなかったのだ。それは自分の長所であり、明るく生きていられる自分を誇らしくも思っていた。

 けれど30代に入り、その明るさがとてもとても、傲慢で、無遠慮で、屈託のない悪意に満ちたものだったのではないかと思ってきた。

 人を傷つけてきた。そのことにやっと気づき始めている。

 恋愛で悩む友達に「好きじゃないなら別れちゃえばいいじゃん」と言ったこと。すぐに別れるならとっくにそうしているのに。家事をしない夫の愚痴をこぼす友達に「やらせたらいいじゃん」と言ったこと。やらないから困っているのに。

 「冷静に考えて結婚相手を選んだら、いまの人を選んでないから」と自分の口から言わせたことの、その暴力性たるや。その言葉を彼女から引き出して、わたしはなにをしたかったのか。

 前向きに生きてきたんじゃない。ただ人の傷に鈍感だっただけだ。

 そのことに気づき始めた瞬間、瞬く間に人生の後悔が増えた。後悔ばかりだ。

 もっとやさしくすればよかった。もっと助けてあげればよかった。あんなに冷たい言葉をかけるべきではなかった。ないがしろにするべきではなかった。あのときの彼女の、彼の、心をもっと見る努力をするべきだった。

 人にやさしくしたい。やさしい心を持ちたい。それは相手のためではなく、その人との関わりが切れたあとでも、こうして「ああすればよかった」と自分自身が苦しまないため。

 後悔がこんなに苦しいなんて知らなかった。もうどうしようもないことに心がとらわれることが、こんなにやるせないなんて。「自分が恥ずかしい」と思うことで感じる痛みが、ここまでとは。

 SNSを見ていると、あきらかに悪意に満ちたコメントを他人にぶつけている人がたまにいる。やめたほうがいい、と思う。

 相手の心を傷つけないため。もう匿名の時代ではないので、現実的に慰謝料という形で責任を負わなくてはいけないから。そもそも倫理的な問題で。

 それらももちろん理由ではあるけれど、それだけではなく、ただただ、自分の心を守るために。

 SNSで、匿名で、他人を傷つけた。

 いつか絶対に、その行為が自分を攻撃する日がやってくる。「そういうことをやってしまった」と思い出すたびに、じくりじくりと生きたまま心臓を握られている気持ちにきっとなる。やめたほうがいい。人を傷つけた記憶が多ければ多いほど、健やかな日々からは遠ざかるんだと思う。

 それはきっと罪悪感。人生に鎖のようにつきまとう感情。

 人にやさしくしよう。自分のために。それが豊かな日々の材料になる。




 

 

インボイスがむりすぎる

インボイスがむりです。ただそれだけの日記です。

なにが無理ってよくわからないことです。確定申告すらヒイヒイと期限ギリギリにこなしている人間がそう簡単に対応できるはずがない。どうすればいいの。とにかく今まで免除されていたあれがこうなってそうなって大変だ! えらいこっちゃ! ということはわかる。

自分なりに調べてどうにか対応していくしかないのですけれど、想像するだけで頭がぱーん! 終わりですもうみんなでアイスクリームを食べましょう、ぴっぴろぴ〜〜〜になってしまうのでもうどうしようもない。

何年大人をやっているんでしょうか。大人なんてこんなもんでしょうか。それともわたしがこんなもんなだけでしょうか。

世の中の大人はいつ「自分は大人になった」と思うんだろう。わたしは漫画を大人買いしたときかな? と思いましたけど、結局のところ1冊ずつ買っていた漫画をドーンと一気に買えるようになっただけで、中身は子どもの欲望のまま。やっぱり大人になりきれていないのではないかと思います。

大人ってなんだろう。そもそも生きるってなんだろう。起きて食べて寝てそれだけでエネルギーを使っていてめちゃくちゃえらいのにそれに加えてインボイスにも対応しないといけないなんて。生きるって大変だ。

インボイスのせいで生命について考え始めてしまいましたよ、ほら〜〜インボイスくんのせい! いきなり出てきて「こんにちは! 今すぐぼくのことを理解しないと仕事がやばいよ!」じゃないんだよ。やさしくしてくれよ。

インボイスが「こんなのもわかんねぇのか、ばかじゃねぇの。だからこうだよ、違うってばか! こう!」ってツンデレに教えてくれたらわたしだってがんばれますよ。なめないでくださいよ。どうか助けてください。

新しく知ること

最近図書館を利用するようになった。はじめは仕事で必要な書籍を読むためだったが、「本が読み放題」という魅力を再認識して、今では仕事を抜きに頻繁に通っている。

当たり前だけど、わたしが図書館を利用していなかったときも、図書館を利用している人はいる。行くたびに「平日でもたくさん人がいるんだな」と思う。のんびり時間を潰しているように見える人、子ども連れの人、雑誌コーナーを興味深そうにながめている人、真剣にノートにメモしている人、カウンターでお目当ての本のありかを尋ねている人。たくさんの人がいて、その人たちはわたしがここにこなくても、今この瞬間にここに存在しているんだよなと少しだけ不思議な気持ちになる。

自分が知らない世界がたくさんあって、自分が知らなくてもそこの世界は回っている。新しい世界に飛び込んでみてもわたしが入ることで生まれる波紋はほんの小さなもので、側から見たらなにも変わっていないんだろう。それがとてもおもしろい。(図書館の存続についての問題点はひとまず抜きにして話を進めます)(なくならないでほしい)(あと司書さんの給料もあげてほしい)

なにか新しいことを始めたいとき、そこまで怖がらなくてもいいのかもしれないとも思った。ひとりの力は偉大だけれど、ひとりの力は小さくもある。ちょっと足を踏み入れて、やっぱりなんか違ったと足を引っ込めたとしても、中にいる人のほとんどはまったく気づかないのかもしれない。それを寂しいと感じるか、気楽だと感じるかは人それぞれだけど。ひとまずわたしは、生活に新しく加わった図書館という居場所を大切にしたいと思う。

ちなみに今は哲学の本を読んでいます。はじめて知ることはおもしろいね。人生知らないことばかりだ。