6月21日:人生の後悔について

 生きているなかで、今まで「ああすればよかった」「こうすればよかった」と思ったことがなかった。いつでも、だいたいは自分の選択を肯定できた。

 ファミレスで「あっちのメニューを頼めばよかった」と小さく悔やむことはあるけど、「人生もっとこうすればよかった」と大きく悔やむことはなかったのだ。それは自分の長所であり、明るく生きていられる自分を誇らしくも思っていた。

 けれど30代に入り、その明るさがとてもとても、傲慢で、無遠慮で、屈託のない悪意に満ちたものだったのではないかと思ってきた。

 人を傷つけてきた。そのことにやっと気づき始めている。

 恋愛で悩む友達に「好きじゃないなら別れちゃえばいいじゃん」と言ったこと。すぐに別れるならとっくにそうしているのに。家事をしない夫の愚痴をこぼす友達に「やらせたらいいじゃん」と言ったこと。やらないから困っているのに。

 「冷静に考えて結婚相手を選んだら、いまの人を選んでないから」と自分の口から言わせたことの、その暴力性たるや。その言葉を彼女から引き出して、わたしはなにをしたかったのか。

 前向きに生きてきたんじゃない。ただ人の傷に鈍感だっただけだ。

 そのことに気づき始めた瞬間、瞬く間に人生の後悔が増えた。後悔ばかりだ。

 もっとやさしくすればよかった。もっと助けてあげればよかった。あんなに冷たい言葉をかけるべきではなかった。ないがしろにするべきではなかった。あのときの彼女の、彼の、心をもっと見る努力をするべきだった。

 人にやさしくしたい。やさしい心を持ちたい。それは相手のためではなく、その人との関わりが切れたあとでも、こうして「ああすればよかった」と自分自身が苦しまないため。

 後悔がこんなに苦しいなんて知らなかった。もうどうしようもないことに心がとらわれることが、こんなにやるせないなんて。「自分が恥ずかしい」と思うことで感じる痛みが、ここまでとは。

 SNSを見ていると、あきらかに悪意に満ちたコメントを他人にぶつけている人がたまにいる。やめたほうがいい、と思う。

 相手の心を傷つけないため。もう匿名の時代ではないので、現実的に慰謝料という形で責任を負わなくてはいけないから。そもそも倫理的な問題で。

 それらももちろん理由ではあるけれど、それだけではなく、ただただ、自分の心を守るために。

 SNSで、匿名で、他人を傷つけた。

 いつか絶対に、その行為が自分を攻撃する日がやってくる。「そういうことをやってしまった」と思い出すたびに、じくりじくりと生きたまま心臓を握られている気持ちにきっとなる。やめたほうがいい。人を傷つけた記憶が多ければ多いほど、健やかな日々からは遠ざかるんだと思う。

 それはきっと罪悪感。人生に鎖のようにつきまとう感情。

 人にやさしくしよう。自分のために。それが豊かな日々の材料になる。